荒下神社

 

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【下野岩太先生著 可部のまちかど98

 

荒下の神宮神社

 国道54号線の「可部の中央」の十字路から、西へ延びているのが県道可部−宇津線。
進むと大きく左へ曲がる。およそ2km、道路の右側すぐの所にある。

 安永年間(一七七七年)の討の記録に「神宮一社、梁桁壱間社下畝数一畝、茅ぶき、大毛寺社人末田越後抱」とあり
、両延神社の神官が祭事をつかさどっていることが分かる。

 二間四方の拝殿の奥、一段恋高い所に本殿が調和よく置かれている。
祭神は応神天皇と神倭伊波礼昆古命(カミヤマトイワレヒコノミコト)と記したものであるがご神体は仏像。
神仏習合時代の影響を今に見るべきか。

 創立はさだかでないが、同所の長老で世話人でもある藤岡正さん(五八)によると
[子供
のころ聞いた話じゃが、昔、この前を流れる太田川の渕の底に沈んでおられたのを、所の人

たちが拾い上げて、川のほとりに祭ったのが始まりとか。
元は川の水際に祭ってあったのをこの地に移したもの」と教えてくださった。

 別説では「昔、神武天皇がご東征のみぎり、この地に船をつなぎ上陸された。
当時はこのあたりまで瀬戸内海が入り込んでいた。
天皇はこの地に足を留め、地方の豪族を従えられた。天皇が去られたあと、その高徳を慕って宮を建て祭った」−と。

 (神倭伊波礼昆古命は神武天皇の別の名)

 また、前記の藤岡さんは「境内に天を圧するような大きな椋(ムクノキ)が立ち、
宮の目印にもなり、神木としてあがめられ、所自慢の一つでもあった。
惜しいことに、昭和十七年の台風で倒壊し、わずかに当時を知るものの記憶に残っているだけ」という。

 本殿前の県道を挾んで、小さな坂の道路が川のほとりへ下りている。
道路のすぐ下の高台の上に高さ4mほどの巨大な石燈ろうがある。
火袋の上に置いてある笠(かさ)は直径2m50p、厚さ1mに及ぶ自然石、
この地方ではほかに例を見ない巨大なもの。まさに倒壊した椋
に代わるシンボルとみてよい。

 祭りは毎年四月十四日に行われていたが、近年はこの日に近い前後の日曜日に改められた。
※ 本稿については所の長老下田国夫。面川章、藤岡正のお三方からご厚情を得た。

 

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